しなお)の姉にあたります。元和元年(1615)に夫信昌が没すると仏門に帰依(きえ)し、盛徳院(せいとくいん)と号しました。 この肖像画は、晩年の亀姫を描いた…
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しなお)の姉にあたります。元和元年(1615)に夫信昌が没すると仏門に帰依(きえ)し、盛徳院(せいとくいん)と号しました。 この肖像画は、晩年の亀姫を描いた…
の国中の軍勢を撃退します。天文17年(1548)に和睦、その後に道三と正室・小見(おみ)の方(かた)の娘である帰蝶(きちょう)(濃姫)が、信秀の子である信長に嫁…
してもよく知られています。 岐阜城跡は岐阜市史跡(昭和32年指定)でしたが、近年の調査によりその歴史的価値が見直されるようになってきました。その成果を受けて国…
宗主の開基とされています。 岐阜別院の裏門は、江戸時代、北方村(現在の本巣郡北方町)にあった冠木門(かぶきもん)を移築したと伝わる門で、かつては境内南側の道…
き切妻形式をとっています。一階の壁はレンガ組みで、この上に屋根を支える三角形の木造トラス組みを設け、二階としています。急勾配の屋根には、一階窓に対応して四か所ず…
祀ったと伝えられています。永禄年間(1558~1570)に、近松光保(ちかまつみつやす)が願主となって社殿を建立し、現在地に遷座したといわれています。 現在…
宗主の開基とされています。 岐阜別院の経蔵は、境内の南寄りに建つ二重の楼閣風の建物で、建築年代は様式からみて幕末の頃と思われます。屋根は平面形が正方形となる…
祀ったと伝えられています。永禄年間(1558~1570)に、近松光保(ちかまつみつやす)が願主となって社殿を建立し、現在地に遷座したといわれています。 三輪…
れた寺院と伝わっています。 護国之寺の楼門は、宝暦12年(1762)、良恭・良観両上人により再建されたものです。 三間二面、重層の楼門で、欅(けやき)材…
れた寺院と伝わっています。 護国之寺の奥之院は、切石積基壇上に礎石を置き円柱を建てた寄棟造りの重層仏堂建築です。丘陵上に南面して建ち、内部に十一面千手観音像…
名づけたことに始まります。貞観6年(864)には、清和天皇の病気平癒を祈って効験があったことから、七堂伽藍の建立が許されました。 延算寺の鐘楼は、入母屋造屋…
宗主の開基とされています。 岐阜別院の本門は、宝暦6年(1756)に建立されたもので、屋根は入母屋造、本瓦葺です。様式は唐様(禅宗様)で、本柱の前後に二本ず…
村にあったとされていますが、慶長5年(1600)に織田秀信(信長の孫)が竹中半兵衛の屋敷跡を寄進し、現在地に移転したと伝わります。 妙照寺の本堂は寺伝による…
村にあったとされていますが、慶長5年(1600)に織田秀信(信長の孫)が竹中半兵衛の屋敷跡を寄進し、現在地に移転したと伝わります。 妙照寺の庫裡は、建築年代…
の形式として評価できます。 また、過去に増改築を繰り返しており、参拝者が階段で二重(二層目)に登り、大仏正面から参拝できるようにしていたこと、螺旋状の巡拝経…
名づけたことに始まります。貞観6年(864)には、清和天皇の病気平癒を祈って効験があったことから、七堂伽藍の建立が許されました。 現在の本堂は、天正10年(…
文化財)が位置しています。両社殿とも創建年代は明らかではありませんが、規模・形式が似ており、組物(柱の上部にある、屋根を支える部材)の技法から様式上、桃山時代末…
)の右隣に位置しています。両社殿とも創建年代は明らかではありませんが、規模・形式が似ており、組物(柱の上部にある、屋根を支える部材)の技法から様式上、桃山時代末…
れた寺院と伝わっています。 この宝篋印塔は、自然石の上面を平らにした台石上に置かれ、基礎・台座・塔身・笠・相輪の五石からなっています。基礎は、上部に蓮華文反…
15点が発見されていますが、県内では椿洞第1古墳群(岐阜市)、稲荷塚1号墳(可児市)の2点のみとなります。また、大刀1セット分の刀装具のほとんどがそろっていると…