掘調査により、 『稲葉城趾之図』に描かれている、信長公時代とみられる 石垣を確認しました。さらに円礫とかわらけが大量に 出土し、山上にも庭的空間や饗応施設…
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掘調査により、 『稲葉城趾之図』に描かれている、信長公時代とみられる 石垣を確認しました。さらに円礫とかわらけが大量に 出土し、山上にも庭的空間や饗応施設…
(1567)に信長が稲葉山城を攻略した際の火 災、上層面は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の前哨戦で岐阜城が落城した際の火災により廃絶し たものである可能性…
岐阜城跡は、金華山(稲葉山)に築かれた山城で、稲葉山城、井ノ口城とも呼ばれていました。戦国時代に美濃国を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織田信長公が天下統一の…
岐阜城跡は、金華山(稲葉山)に築かれた山城で、稲葉山城、井ノ口城とも呼ばれていました。戦国時代に美濃国を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織田信長公が天下統一の…
伊奈波神社蔵『稲葉城趾之図』(江戸時代中期) 岐阜市歴史博物館蔵絵葉書『岐阜古城址天守閣』(大正頃) 令和3年度の発掘調査地点 現在の岐阜城復興天守とその周…
を確認。 絵図(「稲葉城址之図」)に描かれる裏門周辺の石垣と位置が対応。 ⇒水の手道沿いに信長期の巨石列(石材9石) 最も大きい石材 長さ140cm×高さ…
329mの金華山(稲葉山)の山上の城郭と山麓の居館を中心に、山全体を天然の要 害として築かれた山城である。稲葉山城、井口城とも呼ばれ、戦国時代に美濃国を治め…
守周辺の石垣 (「稲葉城趾之図」、江戸時代、伊奈波神社所蔵) 西 東 南 北 確認した石垣▶ 天守台 ①天守南通路西側の調査 下段石垣の発見 …
江戸時代の絵図『稲葉城趾之図(いなばじょうしのず)』には、天守に向かう通路の両側に2段の石垣が描かれています。現況では、東側は2段、西側は1段のみ露出してい…
原始~中世にかけての稲葉山(金華山)の信仰 ············ 86 2.伊奈波神社の旧跡としての稲葉山 ······················…
5年度 の調査で『稲葉城趾之図』に描かれ ているとおり、通路下段の石垣を確 認しました。また、石垣の前面から、 円礫とかわらけが大量に出土し、通 路上…
その後、岐阜城(稲葉山城)を改修し、足掛け10年居住しました。 最後には、「近世城郭の原点」とも呼ばれる安土城を築きます。 今回のフォーラムでは、「安…
329mの金華山(稲葉山)の山上の城郭と山麓の居館を中心に、山全体を天 然の要害として築かれた山城である。稲葉山城、井口城とも呼ばれ、戦国時代に美濃国を治め…
調査により後斎藤氏の稲葉山城を踏襲しながら信長期以降に大改修を行ったことや本能寺の変以降も 池田輝政や豊臣秀勝、織田秀信によって改修されながらも受け継がれてき…
岐阜城跡は、金華山(稲葉山)の山上の城郭と山麓の居館を中心に、山全体を天然の要害として築かれ た山城である。稲葉山城とも呼ばれ、斎藤道三や織田信長の居城として…
0年前後から金華山の稲葉 山城を拠点とし、西麓にあった伊奈波神社 や寺社群を町の南部に移転させ、その跡地 に居館を建設しました。 永禄10(1567)…
共通する特徴 ※『稲葉城趾之図』(伊奈波神社所蔵)に描かれた石垣と対応すると考えられる ⇒中腹の石垣に続き、今回も現地との対比ができたことで、絵図の信頼性が…
けては「因幡山」、「稲葉山」等の表記が史料に多く見られ、 近代以降は「金華山」の名称が一般化する。本地域計画では、原則として現在使用されている「金華山」 と…
(1567)に信長が稲葉山城を攻略した際の火災、上層 面は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の前哨戦で岐阜城が落城した際の火災により廃絶したものである可能 性…
城に伴い斎藤道三公が稲葉山(金華山)にあった伊奈波神社を現在地に移したと伝えられています。 戦国時代に岐阜を訪れた有力者は城下町の名所を訪れましたが、時期が…