地を移したときには、城下町は戦乱で荒廃しておった。そこで城下町の繁栄のため、加納山(水道山)にある橿森神社の境内にあった御薗の榎(みそののえのき)の下に、自由な…
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地を移したときには、城下町は戦乱で荒廃しておった。そこで城下町の繁栄のため、加納山(水道山)にある橿森神社の境内にあった御薗の榎(みそののえのき)の下に、自由な…
本拠地を移すと、早速城下の整備にとりかかった。今は小さな水路であるこの梶川堀から東側に武家屋敷を配し、西側へは町屋を配置したのだ。堀の名は、わしの臣下・梶川高盛…
ある。この門は、加納城の三の丸の跡地に明治32年(1899年)に建てられた旧師範学校の正門であり、赤い煉瓦造りで、地元では赤門と呼ばれておる。よく見ると、門扉に…
ビ番号:408 岐阜城総構 ページ番号1020391 更新日 令和5年3月24日 印刷大きな文字で印刷 …
しの本拠地である革手城の北に建立した寺で、禅宗五山派(法燈派)の寺院である。15世紀の中頃には、京都の禅宗寺院のように三門、本堂、法堂(はっとう)が並ぶ大伽藍を…
ら、難攻不落の稲葉山城攻めを命じられたのじゃ。わしは、夜間に岩戸口を登って城内に潜入し、早朝、薪小屋に火を放って、城を攻略、この天狗岩の上から槍先の瓢箪を振って…
井ノ口(岐阜)の地に城下町を建設し始めて間もない頃、隣国・尾張から織田信秀(織田信長の父)の軍勢が、井ノ口の町中まで攻め込んできたのじゃ。わしは、それを押し戻し…
滅ぼし、美濃を平定、城下町の井ノ口を岐阜と改め、いよいよ、わしは、この地で天下統一の一歩を踏み出したのじゃ。大手道旧三の丸付近に復元されたこの冠木門は、旧来の身…
長良川の戦いに敗れ、城田寺に退れようとするところを討ち取られてしまったのじゃ。まさに下剋上よのう。その遺体は崇福寺の西南に埋葬されたが、塚は長良川の洪水の度に流…
7年(1602)に築城した加納城の西側の外堀の役目をしており、城の防衛と水運を兼ねておった。現在は完全に埋められてしまったが、加納公園から南にのびる暗渠(あんき…
ナビ番号:430 城跡や古井の清水先とはむ(岐阜公園三重塔下) ページ番号1020415 更新日 令和5年3月24日…
7)、信長様が稲葉山城をお攻めになり、この地を岐阜と改め本拠とされました。それにより、わたくしの夫となる山内一豊もこの地に移り、わたくしどもは、運命の出会いを果…
しは、ここ稲葉山を居城(後の岐阜城)とするため、烏帽子岩(えぼしいわ)と呼ぶ神々しい巨石の残るこの地にあった伊奈波神社の社殿を、現在の地へ移したのじゃ。ちなみに…
原の戦いに先立つ岐阜城陥落の直前に逃れ俳諧人となり、その後、江戸で俳諧の教授をいたしておりました。春日局はわたくしの一族でございます。「唐までもさんごの月の光か…
り、山の上にある岐阜城の天守閣をはじめ、多くの櫓などを備え、兵を配した要害堅固な城であったんじゃがのぉ、籠城に備えた飲み水の確保は非常に困難を極めたんじゃ。岩で…
信長公の父)は稲葉山城を攻め、このあたりも戦場となったが、わしは織田の軍勢を打ち破り、織田方は多くの戦死者を出したのじゃ。後に村人たちが織田方の戦死者を葬り塚を…