直元(卜全)とともに美濃三人衆と呼ばれ、稲葉一徹の名が良く知られておるようじゃ。わしは、はじめ土岐氏、後に斎藤氏三代(道三・義龍・龍興)に仕えたが、信長様の美濃…
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直元(卜全)とともに美濃三人衆と呼ばれ、稲葉一徹の名が良く知られておるようじゃ。わしは、はじめ土岐氏、後に斎藤氏三代(道三・義龍・龍興)に仕えたが、信長様の美濃…
ばれておる。わしは、美濃の守護大名・土岐頼芸に仕えておったが、 頼芸を追放し美濃の実権を握ったのじゃ。弘治2年(1556)に子・義龍と争い長良川合戦で敗れ討死に…
興を破り念願であった美濃を手中におさめたのじゃ。井ノ口と呼ばれておったものを、中国の故事にならい、岐阜と改め天正4年(1576)に安土に移るまでの9年の間ここ岐…
納、笠松、一宮さらに美濃路との分岐点、四ツ家(愛知県稲沢市)まで約26キロほどを結んでいました。一宮に宿を置き、松並木なども見られたそうです。江戸時代の初めから…
(1567)信長様が美濃を手中におさめると、信長様にお仕えするようになり、秀吉様のもとで数々の合戦に活躍したが、天正7年(1579)中国遠征の途上であった播磨三…
んに立ち寄り、友人が美濃名産の傘を買いました。中山道を歩いて国鉄岐阜駅へ向かう途中、この加納天満宮の境内を通りました。境内には静かに落ち葉が舞っていました。 …
ン電車の基礎を築いた美濃電気軌道(みのでんききどう)で生まれ、2度の大戦や戦後の復興、町の発展と衰退を見ながら岐阜の町を駆け抜けてきました。平成17年3月末で現…
に次ぐ35軒もあり、美濃十六宿・最大の宿場だったのじゃ。天皇の勅使や公家・大名などが宿泊する本陣や脇本陣もありましたが、この宿の特徴はやはり問屋場で、日本一の生…