内申し上げよう。 天文8年(1539)、私は主君・土岐氏を追放して、ここ美濃国を手中にしたのじゃ。その頃、ここ稲葉山中腹の丸山には、伊奈波神社という神社があっ…
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内申し上げよう。 天文8年(1539)、私は主君・土岐氏を追放して、ここ美濃国を手中にしたのじゃ。その頃、ここ稲葉山中腹の丸山には、伊奈波神社という神社があっ…
の父・信秀様に仕え、天文20年(1551)信秀様がお亡くなりになり、家督相続争いで信長様と争ったのじゃが、戦いに敗れ信長様にお仕えするようになり、以後、信長様に…
が幼少の頃より仕え、天文20年(1551)信長の父・信秀死後の家督相続争いでは一貫して信長方として戦いました。以後家臣団の筆頭格として信長に従い各地を転戦し天正…
ばれておる。わしは、天文13年(1544)斎藤氏の家臣・竹中重元の子として生まれ、斎藤義龍様、龍興様に仕えておった。竹中半兵衛の名が良く知られておるようじゃ。永…
この地へ移したのだ。天文8年(1539)頃の話じゃ。御祭神は五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)で、第十一代垂仁天皇の第一皇子。その妃は渟熨斗姫命(ヌノシ…
城下にもたらしたく、天文18年(1549)この地に移したのじゃ。ここの本尊・乾漆十一面観音立像は、天平時代のものとされる県内最古の仏像の1つである。そうそう、毎…