ナビ番号:630 斎藤道三(家紋:波) ページ番号1020523 更新日 令和5年3月24日 印刷大きな文字で…
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ナビ番号:630 斎藤道三(家紋:波) ページ番号1020523 更新日 令和5年3月24日 印刷大きな文字で…
ぎふ・いざないびと、斎藤道三がご案内申し上げよう。 わしは稲葉山城(後の岐阜城)を居城とするため、かつて金華山北側中腹の丸山にあった伊奈波神社を、この地へ移し…
10年(1567)に斎藤道三の孫・龍興を破り念願であった美濃を手中におさめたのじゃ。井ノ口と呼ばれておったものを、中国の故事にならい、岐阜と改め天正4年(157…
ぎふ・いざないびと、斎藤道三がご案内申し上げよう。 ここ常在寺は、斎藤家にゆかりの深い寺で、日蓮宗京都妙覚寺を系譜とする寺である。開山は宝徳2年(1450年)…
文13年(1544)斎藤氏の家臣・竹中重元の子として生まれ、斎藤義龍様、龍興様に仕えておった。竹中半兵衛の名が良く知られておるようじゃ。永禄7年(1564)酒色…
ぎふ・いざないびと、斎藤徳元がご案内申し上げます。 わたくしは、斎藤道三の曾孫として生まれ、織田秀信様に仕えておりましたが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに…
ぎふ・いざないびと、斎藤道三がご案内申し上げよう。 尾張の織田信秀(織田信長公の父)は稲葉山城を攻め、このあたりも戦場となったが、わしは織田の軍勢を打ち破り、…
、はじめ土岐氏、後に斎藤氏三代(道三・義龍・龍興)に仕えたが、信長様の美濃攻めの折に、われら美濃三人衆が織田方につき永禄10年(1567)信長様は美濃を手中にお…
ぎふ・いざないびと、斎藤道三がご案内申し上げよう。 美濃の覇権を手にしたわしも、最後には、弘治2年(1556)、子・義龍と争った長良川の戦いに敗れ、城田寺に退…
ぎふ・いざないびと、斎藤道三がご案内申し上げよう。 天文8年(1539)、私は主君・土岐氏を追放して、ここ美濃国を手中にしたのじゃ。その頃、ここ稲葉山中腹の丸…
ぎふ・いざないびと、斎藤道三がご案内申し上げよう。 わしが、主君・土岐氏を追放して、井ノ口(岐阜)の地に城下町を建設し始めて間もない頃、隣国・尾張から織田信秀…
ぎふ・いざないびと、斎藤妙椿がご案内申し上げよう。 わたくしは、応仁の乱の頃、活躍した武将で、美濃国の守護代じゃ。ここは、菅原道真公をまつった古い神社で、加納…
ぎふ・いざないびと、斎藤妙椿が申し上げよう。 わたくしは、応仁の乱(1467~1477年)の頃、美濃国の守護代として活躍した武将である。瑞龍寺は、臨済宗妙心寺…
ぎふ・いざないびと、斎藤義龍がご案内申し上げよう。 ここ伝燈護国寺は、わしが、永禄3年(1560)京都の妙心寺から僧・別伝を招き、建立した寺である。わしは、こ…
567)9月、わしが斎藤龍興を滅ぼし、美濃を平定、城下町の井ノ口を岐阜と改め、いよいよ、わしは、この地で天下統一の一歩を踏み出したのじゃ。大手道旧三の丸付近に復…
。 伊奈波界隈は、斎藤道三・織田信長の時代から伊奈波神社の門前町として栄え始め、江戸・明治・大正・昭和と時代を経るなかで、独自の歴史や文化を積み重ねてきました…
は、戦国時代、わしや斎藤道三の居館があった場所である。金華山の大自然に包まれた園内は、内苑と外苑に分かれており、内苑には、わしの居館跡をはじめ、冠木門、信長庭園…
した美濃の国の武将、斎藤妙椿様の子・妙純の妻です。この開善院は、応仁元年(1467)に開かれた瑞龍寺の塔頭(たっちゅう・大寺院の敷地内にある別坊)であり、妙椿様…
ぎふ・いざないびと、斎藤道三がご案内申し上げよう。 ここ美江寺は、天台宗の寺で、創建は養老元年(717)、かつては瑞穂市にあり、門前も大変賑わっておったのじゃ…
り、その後、わしが、斎藤道三の孫・龍興を破り手に入れた城なのじゃ。稲葉山城と呼ばれておったのを、中国の故事にならい、岐阜城と改め天下統一の足掛かりとしたのじゃ。…