びと、徳川家康がご案内申し上げよう。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで勝利した私は、今まで支配の及ばなかった美濃国を、加納藩などの小藩と、30余りの旗本領…
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びと、徳川家康がご案内申し上げよう。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで勝利した私は、今まで支配の及ばなかった美濃国を、加納藩などの小藩と、30余りの旗本領…
びと、織田信長がご案内申し上げよう。 戦国時代、ここには岐阜城下町の周りを取り囲んで総構(惣構・そうがまえ)と呼ばれる土塁が築かれておった。ヨーロッパなどでい…
びと、織田信長がご案内申し上げよう。 わしが永禄10年(1567)に当時井ノ口と呼ばれていた岐阜に本拠地を移したときには、城下町は戦乱で荒廃しておった。そこで…
びと、各務支考がご案内申し上げます。 「山の端の月見や岐阜は十三夜」わたくしは、ここ美濃の地に生まれ、松尾芭蕉の門弟・蕉門十哲の一人である各務支考(かがみしこ…
びと、斎藤道三がご案内申し上げよう。 天文8年(1539)、私は主君・土岐氏を追放して、ここ美濃国を手中にしたのじゃ。その頃、ここ稲葉山中腹の丸山には、伊奈波…
びと、織田信長がご案内申し上げよう。 この門はのう、わしの居館跡にある門で、わしの生きた戦国の世の雰囲気が伝わるよう、当時の姿を想定して寄贈された門じゃ。高さ…
びと、板垣退助がご案内申し上げよう。 明治15年(1882)4月6日、自由党総理であった私は、この地で演説した折に暴漢に襲われてしまったが、幸い傷は浅く命に別…
、朝日文左衛門がご案内申し上げます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1…
、朝日文左衛門がご案内申し上げます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1…
びと、織田信長がご案内申し上げよう。 わしは、永禄10年(1567)、当時井ノ口と呼ばれていた岐阜に本拠地を移すと、早速城下の整備にとりかかった。今は小さな水…
びと、徳川宗春がご案内申し上げよう。 私は尾張藩7代藩主・徳川宗春である。江戸時代の岐阜のまちは、尾張藩岐阜町として治められておった。歴代藩主は、必ず一度は岐…
、岐阜町総年寄がご案内申し上げます。 ようこそ、岐阜町へ。私は町民代表の総年寄。江戸時代、町奉行の差配を受けて町政一般をつかさどっておりました。ここから北はか…
、朝日文左衛門がご案内申し上げます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1…
びと、土岐頼康がご案内申し上げよう。 わしは、南北朝時代の美濃国・第3代守護である。この寺は14世紀中頃、わしの本拠地である革手城の北に建立した寺で、禅宗五山…
のじゃくえん)がご案内申し上げます。 私は明治時代の国会議員です。浄土真宗本願寺派の僧でしたが、第1回衆議院議員選挙にあたり僧籍を離れて立候補し、当選しました…
びと、豊臣秀吉がご案内申し上げよう。 永禄10年(1567)8月、わしが木下藤吉郎と名乗っておった頃、主君・織田信長様から、難攻不落の稲葉山城攻めを命じられた…
びと、斎藤道三がご案内申し上げよう。 わしが、主君・土岐氏を追放して、井ノ口(岐阜)の地に城下町を建設し始めて間もない頃、隣国・尾張から織田信秀(織田信長の父…
びと、織田信長がご案内申し上げよう。 永禄10年(1567)9月、わしが斎藤龍興を滅ぼし、美濃を平定、城下町の井ノ口を岐阜と改め、いよいよ、わしは、この地で天…
びと、斎藤道三がご案内申し上げよう。 美濃の覇権を手にしたわしも、最後には、弘治2年(1556)、子・義龍と争った長良川の戦いに敗れ、城田寺に退れようとすると…
と、西川喜之助がご案内申し上げます。 わたしは江戸時代の付問屋を営んでおりました町商人でございます。寛永13年(1636)、岐阜町を統治しておりました尾張藩は…