びと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「夏きてもたゞひとつはの一は哉」ヒトツバとはシダ植物の仲間で、一年を通じて一本の茎に一枚だけ葉をつけた姿で金華山に自生し…
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びと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「夏きてもたゞひとつはの一は哉」ヒトツバとはシダ植物の仲間で、一年を通じて一本の茎に一枚だけ葉をつけた姿で金華山に自生し…
ないびと、濃姫がご案内申し上げまする。 この墓は、天正10年(1582)本能寺で信長様と共になくなったわたくしの遺髪を埋葬した遺髪塚であると伝えられております…
びと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「松杉をほめてや風のかほる音」この句は、元禄7年(1694)の夏、京都嵯峨の落柿舎にて詠んだものであります。かって、高名…
くすのき)の精がご案内申し上げます。 この場所には、かって楠堂(なんどう)という建物がございました。楠堂は、現大垣市出身の実業家・矢橋亮吉が明治37年(190…
びと、織田信長がご案内申し上げよう。 わしが永禄10年(1567)に当時井ノ口と呼ばれていた岐阜に本拠地を移したときには、城下町は戦乱で荒廃しておった。そこで…
びと、織田信長がご案内申し上げよう。 わしは、永禄10年(1567)、当時井ノ口と呼ばれていた岐阜に本拠地を移すと、早速城下の整備にとりかかった。今は小さな水…
びと、織田信長がご案内申し上げよう。 この門はのう、わしの居館跡にある門で、わしの生きた戦国の世の雰囲気が伝わるよう、当時の姿を想定して寄贈された門じゃ。高さ…
びと、織田信長がご案内申し上げよう。 戦国時代、ここには岐阜城下町の周りを取り囲んで総構(惣構・そうがまえ)と呼ばれる土塁が築かれておった。ヨーロッパなどでい…
、朝日文左衛門がご案内申し上げます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1…
、朝日文左衛門がご案内申し上げます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1…
びと、徳川家康がご案内申し上げよう。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで勝利した私は、今まで支配の及ばなかった美濃国を、加納藩などの小藩と、30余りの旗本領…
、岐阜町総年寄がご案内申し上げます。 ようこそ、岐阜町へ。私は町民代表の総年寄。江戸時代、町奉行の差配を受けて町政一般をつかさどっておりました。ここから北はか…
、朝日文左衛門がご案内申し上げます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1…
びと、土岐頼康がご案内申し上げよう。 わしは、南北朝時代の美濃国・第3代守護である。この寺は14世紀中頃、わしの本拠地である革手城の北に建立した寺で、禅宗五山…
のじゃくえん)がご案内申し上げます。 私は明治時代の国会議員です。浄土真宗本願寺派の僧でしたが、第1回衆議院議員選挙にあたり僧籍を離れて立候補し、当選しました…
びと、豊臣秀吉がご案内申し上げよう。 永禄10年(1567)8月、わしが木下藤吉郎と名乗っておった頃、主君・織田信長様から、難攻不落の稲葉山城攻めを命じられた…
びと、斎藤道三がご案内申し上げよう。 わしが、主君・土岐氏を追放して、井ノ口(岐阜)の地に城下町を建設し始めて間もない頃、隣国・尾張から織田信秀(織田信長の父…
びと、織田信長がご案内申し上げよう。 永禄10年(1567)9月、わしが斎藤龍興を滅ぼし、美濃を平定、城下町の井ノ口を岐阜と改め、いよいよ、わしは、この地で天…
びと、斎藤道三がご案内申し上げよう。 美濃の覇権を手にしたわしも、最後には、弘治2年(1556)、子・義龍と争った長良川の戦いに敗れ、城田寺に退れようとすると…
と、西川喜之助がご案内申し上げます。 わたしは江戸時代の付問屋を営んでおりました町商人でございます。寛永13年(1636)、岐阜町を統治しておりました尾張藩は…