た。その後、岐阜町は尾張藩領となり、元禄8年(1695)には町民の願いもあり、ここに岐阜町奉行所を開いたのだ。敷地内には奉行所・道場・同心屋敷・手代屋敷などがあ…
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た。その後、岐阜町は尾張藩領となり、元禄8年(1695)には町民の願いもあり、ここに岐阜町奉行所を開いたのだ。敷地内には奉行所・道場・同心屋敷・手代屋敷などがあ…
ます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1717)8月に岐阜町出張の折、…
内申し上げよう。 尾張の織田信秀(織田信長公の父)は稲葉山城を攻め、このあたりも戦場となったが、わしは織田の軍勢を打ち破り、織田方は多くの戦死者を出したのじゃ…
し上げよう。 私は尾張藩7代藩主・徳川宗春である。江戸時代の岐阜のまちは、尾張藩岐阜町として治められておった。歴代藩主は、必ず一度は岐阜を訪れ、ここにあった賀…
て間もない頃、隣国・尾張から織田信秀(織田信長の父)の軍勢が、井ノ口の町中まで攻め込んできたのじゃ。わしは、それを押し戻し、この円徳寺のあたりで織田の軍勢を打ち…
を統治しておりました尾張藩は、ここ長良川の川湊に役所を設け、川を利用して運搬する材木類や、酒、紙、お茶などの舟荷物などを点検して、舟役銀(ふなやくぎん)という通…
ます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1717)8月に岐阜町出張の折、…
ます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1717)8月に岐阜町出張の折、…