年(1539)頃の話じゃ。御祭神は五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)で、第十一代垂仁天皇の第一皇子。その妃は渟熨斗姫命(ヌノシヒメノミコト)で金町にある…
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年(1539)頃の話じゃ。御祭神は五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)で、第十一代垂仁天皇の第一皇子。その妃は渟熨斗姫命(ヌノシヒメノミコト)で金町にある…
現在の場所に移ったのじゃ。毎年2月3日の節分には厄よけや開運を祈って「節分つり込み祭り」がおこなわれておる。この祭りでは、赤鬼にふんした厄男を神輿に、お福さんに…
行人に棒で打たせたのじゃ。そこで茶をふるまったことから「茶所」の地名が生まれたのじゃ。今も「茶所」に残る「鏡岩の碑」の横に立つ道標には、天保12年(1841)鏡…
)に現在地に移したのじゃ。しかし、地蔵が小熊に帰りたいというお告げがあったので、天正2年(1574)、このあたりの地名を小熊と改めてやったのじゃ。地蔵像は岐阜市…
将で、美濃国の守護代じゃ。ここは、菅原道真公をまつった古い神社で、加納城の守護神として、慶長6年(1601)に徳川家康公により現在の地に移されたのじゃ。代々の加…
範を招き、建立したのじゃ。その後、戦国時代となり、美濃国主になったわしは、ここ常在寺を寺領を与えて保護していったのじゃ。しかし、弘治2年(1556)長良川での戦…
の寺院を統括させたのじゃ。また、楽市楽座の制札を与え、自由な商売を門前で開かせ、それは、子・信忠たちに引き継がれていったのじゃ。思えば、わしの父・信秀の時代の戦…
院がそれに呼応したのじゃ。そこで、元亀3年(1572)、専福寺に加担を禁じたのが、わしの朱印状なのじゃ。当時の寺院と政治権力との関係を考える上で重要な文書である…
年(1469)のことじゃ。永禄10年(1567)、わしが岐阜に本拠地を移すと、この寺に禁制を出して保護し、織田家の菩提所としたのだ。本能寺の変でわしと子・信忠が…
旗神社(みぞばたじんじゃ)は、用明天皇2年(586)、このあたりで疫病が流行ったため「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」に祈願したところ疫病がおさまり、その後、社殿…
地蔵と呼ばれておるのじゃ。また、入口には、かって高さ10mにも及ぶ大きな地蔵像があったが、老朽化のため山門に建て替えられた。今は、境内の奥に石地蔵が安置されてお…
ひとつに数えられたのじゃ。当時の住職・岩空上人は、わしに仕えて、後に姫路藩主となり、姫路城を築城した池田輝政の兄という説がある。また、ここには、阿弥陀(あみだ)…
寺のひとつとなったのじゃ。この地はもとは墓地であり、志半ばで戦死した者たちを弔うのにふさわしい地であると考えたのだ。今は霊験あらたかな子安地蔵をまつる寺として、…
移したことに始まるんじゃ。また、この院の年中行事には、大変ユニークなものがあるんじゃ。7月の「胡瓜封じ」というものは、自分で胡瓜を持参して、護符を入れてもらうも…
大変賑わっておったのじゃ。その賑わいを、ぜひ、わしのお膝元である稲葉山城下にもたらしたく、天文18年(1549)この地に移したのじゃ。ここの本尊・乾漆十一面観音…