直元(卜全)とともに美濃三人衆と呼ばれ、稲葉一徹の名が良く知られておるようじゃ。わしは、はじめ土岐氏、後に斎藤氏三代(道三・義龍・龍興)に仕えたが、信長様の美濃…
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直元(卜全)とともに美濃三人衆と呼ばれ、稲葉一徹の名が良く知られておるようじゃ。わしは、はじめ土岐氏、後に斎藤氏三代(道三・義龍・龍興)に仕えたが、信長様の美濃…
ばれておる。わしは、美濃の守護大名・土岐頼芸に仕えておったが、 頼芸を追放し美濃の実権を握ったのじゃ。弘治2年(1556)に子・義龍と争い長良川合戦で敗れ討死に…
わしは、南北朝時代の美濃国・第3代守護である。もとは、第2代守護・土岐頼遠が東濃から長森に本拠を移した後、その跡を継いだわしが、観応年間(1350)頃、その城が…
~1477年)の頃、美濃国の守護代として活躍した武将である。瑞龍寺は、臨済宗妙心寺派のお寺で、金宝山と号します。応仁元年(1467)、わたくしの主君・土岐成頼の…
夜」わたくしは、ここ美濃の地に生まれ、松尾芭蕉の門弟・蕉門十哲の一人である各務支考(かがみしこう)でございます。この句は、ここ岐阜の地では、風光明媚な山々の端か…
77)の頃に活躍した美濃の国の武将、斎藤妙椿様の子・妙純の妻です。この開善院は、応仁元年(1467)に開かれた瑞龍寺の塔頭(たっちゅう・大寺院の敷地内にある別坊…
内申し上げよう。 美濃の覇権を手にしたわしも、最後には、弘治2年(1556)、子・義龍と争った長良川の戦いに敗れ、城田寺に退れようとするところを討ち取られてし…
が斎藤龍興を滅ぼし、美濃を平定、城下町の井ノ口を岐阜と改め、いよいよ、わしは、この地で天下統一の一歩を踏み出したのじゃ。大手道旧三の丸付近に復元されたこの冠木門…
2代宗主・准如上人の美濃ご巡教の際に、美濃国厚見郡西野(現岐阜市西野町)の豪族・一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が、父・直高(なおたか)の遺命により志を申し出て…
興を破り念願であった美濃を手中におさめたのじゃ。井ノ口と呼ばれておったものを、中国の故事にならい、岐阜と改め天正4年(1576)に安土に移るまでの9年の間ここ岐…
「しるべして見せばや美濃の田植え歌」という句に誘われて、岐阜の地を訪れました。そして、この句は、この寺に身を寄せた折、あいさつとして、己百様に贈ったものでござい…
点じゃ。収蔵資料には美濃を足場に天下統一に乗り出したわたくしの文書(もんじょ)や、天領飛騨の様子を伝える飛騨郡代高山陣屋文書、歴史人口学の史料として世界的に注目…
納、笠松、一宮さらに美濃路との分岐点、四ツ家(愛知県稲沢市)まで約26キロほどを結んでいました。一宮に宿を置き、松並木なども見られたそうです。江戸時代の初めから…
蜂起を促がしたので、美濃においても多くの寺院がそれに呼応したのじゃ。そこで、元亀3年(1572)、専福寺に加担を禁じたのが、わしの朱印状なのじゃ。当時の寺院と政…
わしは、南北朝時代の美濃国・第3代守護である。この寺は14世紀中頃、わしの本拠地である革手城の北に建立した寺で、禅宗五山派(法燈派)の寺院である。15世紀の中頃…
(1567)信長様が美濃を手中におさめると、信長様にお仕えするようになり、秀吉様のもとで数々の合戦に活躍したが、天正7年(1579)中国遠征の途上であった播磨三…
が始まったが、これが美濃における相撲興行の始まりといわれておる。 より良いホームページにするために、ページのご感想をお聞かせください。 この…
頃、活躍した武将で、美濃国の守護代じゃ。ここは、菅原道真公をまつった古い神社で、加納城の守護神として、慶長6年(1601)に徳川家康公により現在の地に移されたの…
岐氏を追放して、ここ美濃国を手中にしたのじゃ。その頃、ここ稲葉山中腹の丸山には、伊奈波神社という神社があった。今からさかのぼること1900年前に、景行天皇によっ…
で支配の及ばなかった美濃国を、加納藩などの小藩と、30余りの旗本領、それに岐阜町などの幕府直轄領に分割して統治した。その後、岐阜町は尾張藩領となり、元禄8年(1…