燈護国寺は、わしが、永禄3年(1560)京都の妙心寺から僧・別伝を招き、建立した寺である。わしは、この頃、勢力を有していた禅宗寺院を抑えるため、当時の禅宗の中心…
ここから本文です。 |
燈護国寺は、わしが、永禄3年(1560)京都の妙心寺から僧・別伝を招き、建立した寺である。わしは、この頃、勢力を有していた禅宗寺院を抑えるため、当時の禅宗の中心…
内申し上げよう。 永禄10年(1567)※注、わしが後に岐阜城と改めた稲葉山城を攻略したとき、本陣だった場所に移したのがこの寺である。わしはこの寺に陣鐘を寄進…
ばれておる。わしは、永禄10年(1567)に信長様から命じられた稲葉山城攻略に成功し晴れて武将として認められ、永禄11年(1568)信長様の上洛の折には明智光秀…
られておるようじゃ。永禄7年(1564)酒色に溺れ、一部の側近だけを寵愛した龍興様をお諌めするためわずかな家来らとともに稲葉山城を奪取したのじゃが、その後、龍興…
内申し上げよう。 永禄10年(1567)9月、わしが斎藤龍興を滅ぼし、美濃を平定、城下町の井ノ口を岐阜と改め、いよいよ、わしは、この地で天下統一の一歩を踏み出…
げよう。 わしは、永禄10年(1567)、当時井ノ口と呼ばれていた岐阜に本拠地を移すと、早速城下の整備にとりかかった。今は小さな水路であるこの梶川堀から東側に…
内申し上げよう。 永禄10年(1567)8月、わしが木下藤吉郎と名乗っておった頃、主君・織田信長様から、難攻不落の稲葉山城攻めを命じられたのじゃ。わしは、夜間…
す。 わたくしは、永禄12年(1569)、キリスト教の布教のため岐阜を訪問したポルトガルの宣教師です。わたくしたちは、信長様に謁見するために、この居館を訪れ、…
れています。森成利は永禄8年(1565)信長の部将・森可成の三男として誕生しました。父・可成は元亀元年(1570)近江での浅井・朝倉との戦いで討死しています。成…
いた地蔵を、わしが、永禄11年(1568)に現在地に移したのじゃ。しかし、地蔵が小熊に帰りたいというお告げがあったので、天正2年(1574)、このあたりの地名を…
187)に創建され、永禄11年(1568)に織田信長公により現在の地に移りました。地元では小熊地蔵として親しまれております。ここに安置されております木造芭蕉像は…
上げよう。 わしが永禄10年(1567)に当時井ノ口と呼ばれていた岐阜に本拠地を移したときには、城下町は戦乱で荒廃しておった。そこで城下町の繁栄のため、加納山…
られておる。わしは、永禄10年(1567)に斎藤道三の孫・龍興を破り念願であった美濃を手中におさめたのじゃ。井ノ口と呼ばれておったものを、中国の故事にならい、岐…
469)のことじゃ。永禄10年(1567)、わしが岐阜に本拠地を移すと、この寺に禁制を出して保護し、織田家の菩提所としたのだ。本能寺の変でわしと子・信忠が明智光…
ただいておりますが、永禄10年(1567)、信長様が稲葉山城をお攻めになり、この地を岐阜と改め本拠とされました。それにより、わたくしの夫となる山内一豊もこの地に…
れ討死にしたのじゃ。永禄10年(1567)に義龍の子・龍興を破り美濃を手中におさめたのは、わしの娘(濃姫)を正室とした織田信長であった。 より良いホームペ…
三人衆が織田方につき永禄10年(1567)信長様は美濃を手中におさめたのじゃ。わしは、信長様がお亡くなりになった後は、秀吉様に仕え、天正16年(注)美濃清水城に…