調査区の大半は、江戸時代には河道となっていたため、削平されていましたが、北端で方形館の堀の一部と、館への入口(土橋)の一部が見つかりました。土橋の幅は約7m…
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調査区の大半は、江戸時代には河道となっていたため、削平されていましたが、北端で方形館の堀の一部と、館への入口(土橋)の一部が見つかりました。土橋の幅は約7m…
阜街道などともいい、江戸時代、岐阜町から加納、笠松、一宮さらに美濃路との分岐点、四ツ家(愛知県稲沢市)まで約26キロほどを結んでいました。一宮に宿を置き、松並木…
とみひでよしぞう 江戸 1 大宮町2-18-1(外部リンク) 岐阜市 絵画 絹本著色悟渓国師頂相 けんぽんちゃくしょくごけいこくしちんぞう…
がいひつろうしず 江戸 1 粟野2339(外部リンク) 大龍寺 絵画 紙本水墨仙厓筆狗子仏性図(外部リンク) しほんすいぼくせんがいひつく…
ます。 中山道は、江戸期の五街道のひとつで江戸から草津までを結び、東海道で大津、京都まで至っておったんじゃ。岐阜市内は12kmほどの道のりで、城下町であった加…
かりの深い童謡じゃ。江戸時代には、将軍家へ献上するお茶を入れたお茶壺が宇治から江戸へ運ばれ、その行列は「お茶壺道中」と呼ばれていたのじゃ。寛文5年(1665)に…
m弱となりますかね。江戸までは旅籠屋の数も恵那の大井宿に次ぐ35軒もあり、美濃十六宿・最大の宿場だったのじゃ。天皇の勅使や公家・大名などが宿泊する本陣や脇本陣も…
美濃の特産品でした。江戸時代になると町にあった御鮨所(おすしどころ)で調製された鮎鮨が、この道を通って江戸の将軍家に献上されたため、御鮨街道と呼ばれるようになり…
山道は東海道とともに江戸日本橋と京都三条大橋を結ぶ重要な街道です。徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)に東海道、慶長7年(1602)には中山道に伝…
が交わるところじゃ。江戸の相撲取であった二代目鏡岩(源之助)が乱暴な所業を反省し己の木像を作り「ぶたれ坊」と名づけ、通行人に棒で打たせて罪ほろぼしをし、ここで茶…
人のことを言います。江戸時代には五百羅漢信仰が盛んになり、全国各地で五百羅漢像が作られました。正法寺の五百羅漢像も、大仏と並行して作られたと考えられています。な…
前町として栄え始め、江戸・明治・大正・昭和と時代を経るなかで、独自の歴史や文化を積み重ねてきました。その名残りは、いまでもなお、歴史的な景観や祭りなどの行事に色…
れておる。この木像は江戸の相撲取であった二代目鏡岩(源之助)が乱暴な所業を反省し罪ほろぼしをするために己の木像を作り「ぶたれ坊」と名づけ通行人に棒で打たせたのじ…
栽培が広がったのは、江戸時代中期の 1710 年代(正徳~享保)に花径 18 ㎝以上の大 菊の新花を競う「菊合わせ」が盛んになった頃からです。入賞すると新花の…
ゃ。中山道を経由して江戸へ向かう途上、10月26日に加納の本陣(松波藤右衛門宅)に宿泊され、そのときに詠まれたという歌が伝えられ、歌碑が建てられているのじゃ。「…
なしが行われ た。江戸時代も尾張藩主らが見物 に訪れており、明治以降になると 一般に開放された。 ② 岐阜城復興天守 未指定 天守からの眺め…
諧人となり、その後、江戸で俳諧の教授をいたしておりました。春日局はわたくしの一族でございます。「唐までもさんごの月の光かな」この句は寛永18年(1641)将軍家…
後もさらに洗練され、江戸時代になると岐阜提灯・岐阜団扇・岐阜和傘等の工芸品が知られるようになるほか、江戸時代後期になると日本最大の漆箔の大仏である岐阜大仏を生み…
側の発掘調査成果 江戸時代の『稲葉城趾之図』には、天守西側の石垣がはっきりと4段で描かれています。 これまでの発掘調査や、周辺地形の表面観察では、上から1、…
。『美濃明細記』等の江戸時代の記録には、行政が稲葉山(金華山)に初めて要害を築いたと記載がある。その後は、二階堂氏及び分家の伊賀氏一族が稲葉山に住し、室町時代に…