岐阜城は、かつて稲葉山城と称し、戦国時代には、斎藤道三公の居城でもあったところです。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)(一説に永禄7…
ここから本文です。 |
岐阜城は、かつて稲葉山城と称し、戦国時代には、斎藤道三公の居城でもあったところです。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)(一説に永禄7…
(織田信長公の父)は稲葉山城を攻め、このあたりも戦場となったが、わしは織田の軍勢を打ち破り、織田方は多くの戦死者を出したのじゃ。後に村人たちが織田方の戦死者を葬…
が後に岐阜城と改めた稲葉山城を攻略したとき、本陣だった場所に移したのがこの寺である。わしはこの寺に陣鐘を寄進し、濃尾の寺院を統括させたのじゃ。また、楽市楽座の制…
上げよう。 わしは稲葉山城(後の岐阜城)を居城とするため、かつて金華山北側中腹の丸山にあった伊奈波神社を、この地へ移したのだ。天文8年(1539)頃の話じゃ。…
1567)、信長様が稲葉山城をお攻めになり、この地を岐阜と改め本拠とされました。それにより、わたくしの夫となる山内一豊もこの地に移り、わたくしどもは、運命の出会…
に入れた城なのじゃ。稲葉山城と呼ばれておったのを、中国の故事にならい、岐阜城と改め天下統一の足掛かりとしたのじゃ。その後、わしの孫・秀信の時代には落城し廃城とな…
ずかな家来らとともに稲葉山城を奪取したのじゃが、その後、龍興様に城をお返しし斎藤家を去ったのじゃ。永禄10年(1567)信長様が美濃を手中におさめると、信長様に…
長様から、難攻不落の稲葉山城攻めを命じられたのじゃ。わしは、夜間に岩戸口を登って城内に潜入し、早朝、薪小屋に火を放って、城を攻略、この天狗岩の上から槍先の瓢箪を…
その後、岐阜城(稲葉山城)を改修し、足掛け10年居住しました。 最後には、「近世城郭の原点」とも呼ばれる安土城を築きます。 今回のフォーラムでは、「安…
信長様から命じられた稲葉山城攻略に成功し晴れて武将として認められ、永禄11年(1568)信長様の上洛の折には明智光秀らとともに京都の政務を任されるようになったの…
その後、岐阜城(稲葉山城)を改修し、足掛け10年居住しました。 最後には、「近世城郭の原点」とも呼ばれる安土城を築きます。 今回のフォーラムでは、「安…
、わしのお膝元である稲葉山城下にもたらしたく、天文18年(1549)この地に移したのじゃ。ここの本尊・乾漆十一面観音立像は、天平時代のものとされる県内最古の仏像…
)に築かれた山城で、稲葉山城、井ノ口城とも呼ばれていました。戦国時代に美濃国を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織田信長公が天下統一の拠点とした城としてもよく知…
)に築かれた山城で、稲葉山城、井ノ口城とも呼ばれていました。戦国時代に美濃国を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織田信長公が天下統一の拠点とした城としてもよく知…
藤龍興を 追放し、稲葉山城を手に入れた信長は、地名を「井口」から「岐 阜」に改め、以後約9年間にわたりこの地を天下統一の拠点とし た。この間に信長は、自由…
56) 斎藤道三が稲葉山城に拠点を置く 織田信長、稲葉山城を落とし、本拠とする 信長、安土城へ移り、織田信忠が跡を嗣ぐ 本能寺の変 池田元助入城 池…
財調査事務所) 「稲葉山城と岐阜城 – 調査最新情報」 令和2年度 新型コロナウィルス感染症拡大により中止 令和3年…
1554 斎藤道三 稲葉山城を修築して入城 ※入城年については諸説あり 弘治2(1556)年息子の斎藤義龍と戦い死去 天文23年 1554 斎 さい …
(1567)に信長が稲葉山城を攻略した際の火災、上層 面は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の前哨戦で岐阜城が落城した際の火災により廃絶したものである可能 性…
調査により後斎藤氏の稲葉山城を踏襲しながら信長期以降に大改修を行ったことや本能寺の変以降も 池田輝政や豊臣秀勝、織田秀信によって改修されながらも受け継がれてき…