岐阜城は、かつて稲葉山城と称し、戦国時代には、斎藤道三公の居城でもあったところです。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)(一説に永禄7…
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岐阜城は、かつて稲葉山城と称し、戦国時代には、斎藤道三公の居城でもあったところです。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)(一説に永禄7…
ナビ番号:635 稲葉良通(稲葉一徹・家紋:折敷) ページ番号1020528 更新日 令和5年3月24日 印刷…
代の記録には、行政が稲葉山(金華山)に初めて要害を築いたと記載がある。その後は、二階堂氏及び分家の伊賀氏一族が稲葉山に住し、室町時代には美濃国の守護代・斎藤氏一…
年(1544)には、稲葉山城下まで攻め込んできた織田信秀(おだのぶひで)の率いる尾張の国中の軍勢を撃退します。天文17年(1548)に和睦、その後に道三と正室・…
岐阜城跡は、金華山(稲葉山)に築かれた山城で、稲葉山城、井ノ口城とも呼ばれていました。戦国時代に美濃国を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織田信長公が天下統一の…
を確認。 絵図(「稲葉城趾之図」)に描かれる裏門周辺の石垣と位置が対応。 ⇒水の手道沿いに信長期の巨石列(石材9石) 最も大きい石材 長さ140cm×高さ…
岐阜城跡は、金華山(稲葉山)に築かれた山城で、稲葉山城、井ノ口城とも呼ばれていました。戦国時代に美濃国を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織田信長公が天下統一の…
掘調査により、 『稲葉城趾之図』に描かれている、信長公時代とみられる 石垣を確認しました。さらに円礫とかわらけが大量に 出土し、山上にも庭的空間や饗応施設…
のじゃ。その頃、ここ稲葉山中腹の丸山には、伊奈波神社という神社があった。今からさかのぼること1900年前に、景行天皇によって創建されたと言われる古社である。そし…
共通する特徴 ※『稲葉城趾之図』(伊奈波神社所蔵)に描かれた石垣と対応すると考えられる ⇒中腹の石垣に続き、今回も現地との対比ができたことで、絵図の信頼性が…
城に伴い斎藤道三公が稲葉山(金華山)にあった伊奈波神社を現在地に移したと伝えられています。 戦国時代に岐阜を訪れた有力者は城下町の名所を訪れましたが、時期が…
える金華山は、別名を稲葉山、または一石山(いっせきざん)ともいいます。標高は約329メ-トル、誕生は約2億年ほど前といわれています。初夏を迎えるとツブラジイの花…
江戸時代の絵図『稲葉城趾之図(いなばじょうしのず)』には、天守に向かう通路の両側に2段の石垣が描かれています。現況では、東側は2段、西側は1段のみ露出してい…
が後に岐阜城と改めた稲葉山城を攻略したとき、本陣だった場所に移したのがこの寺である。わしはこの寺に陣鐘を寄進し、濃尾の寺院を統括させたのじゃ。また、楽市楽座の制…
二ノ門周辺で絵図(「稲葉城趾之図」)に描かれている信長期の石垣を確認しました。資料館南側で絵図に描かれていない信長期の新たな石垣を確認しました。→昨年の調査成果…
上げよう。 わしは稲葉山城(後の岐阜城)を居城とするため、かつて金華山北側中腹の丸山にあった伊奈波神社を、この地へ移したのだ。天文8年(1539)頃の話じゃ。…
ひととき、門人たちと稲葉山の木陰で鵜飼の始まりを待つ席で詠んだものでございます。「長良川で獲れた鮎の酢物は、これまた、たぐいなくおいしいものである。」との意であ…
だものでございます。稲葉山(金華山)のあたり一面に降るような蝉の声。その鳴声に促されて麓の寺の梵鐘が今にも音を発しそうな風情をあらわしたものでございます。 …
(織田信長公の父)は稲葉山城を攻め、このあたりも戦場となったが、わしは織田の軍勢を打ち破り、織田方は多くの戦死者を出したのじゃ。後に村人たちが織田方の戦死者を葬…
に入れた城なのじゃ。稲葉山城と呼ばれておったのを、中国の故事にならい、岐阜城と改め天下統一の足掛かりとしたのじゃ。その後、わしの孫・秀信の時代には落城し廃城とな…