国時代、ここには岐阜城下町の周りを取り囲んで総構(惣構・そうがまえ)と呼ばれる土塁が築かれておった。ヨーロッパなどでいう都市城壁に類するもので、戦国時代から多く…
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国時代、ここには岐阜城下町の周りを取り囲んで総構(惣構・そうがまえ)と呼ばれる土塁が築かれておった。ヨーロッパなどでいう都市城壁に類するもので、戦国時代から多く…
地を移したときには、城下町は戦乱で荒廃しておった。そこで城下町の繁栄のため、加納山(水道山)にある橿森神社の境内にあった御薗の榎(みそののえのき)の下に、自由な…
こ加納宿は、加納城の城下町にあり、中山道の宿場町では、群馬の高崎宿に次ぐ大きな宿場だったのじゃ。宿の長さは普通の宿の3倍程の18町余りで、一町は約109mなので…
滅ぼし、美濃を平定、城下町の井ノ口を岐阜と改め、いよいよ、わしは、この地で天下統一の一歩を踏み出したのじゃ。大手道旧三の丸付近に復元されたこの冠木門は、旧来の身…
井ノ口(岐阜)の地に城下町を建設し始めて間もない頃、隣国・尾張から織田信秀(織田信長の父)の軍勢が、井ノ口の町中まで攻め込んできたのじゃ。わしは、それを押し戻し…
kmほどの道のりで、城下町であった加納宿と長良川右岸の渡しで栄えた河渡宿があったんじゃ。現在の国道21号はほぼ中山道に沿っておる。細畑の一里塚、沿道に残る道しる…
納藩の創設にともない城下町の建設が開始されると、元和元年(1615)に中山道沿いのこの場所に移されました。東番所手前の寺として親しまれていたようです。 よ…
は、川原町から南の旧城下町へ抜ける橋が3本並んでいます。その中で一番古い橋が、ここ霞橋(かすみばし)で、灯籠を形どった欄干には懐かしい風情が漂っています。また、…