阜街道などともいい、江戸時代、岐阜町から加納、笠松、一宮さらに美濃路との分岐点、四ツ家(愛知県稲沢市)まで約26キロほどを結んでいました。一宮に宿を置き、松並木…
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阜街道などともいい、江戸時代、岐阜町から加納、笠松、一宮さらに美濃路との分岐点、四ツ家(愛知県稲沢市)まで約26キロほどを結んでいました。一宮に宿を置き、松並木…
ます。 中山道は、江戸期の五街道のひとつで江戸から草津までを結び、東海道で大津、京都まで至っておったんじゃ。岐阜市内は12kmほどの道のりで、城下町であった加…
かりの深い童謡じゃ。江戸時代には、将軍家へ献上するお茶を入れたお茶壺が宇治から江戸へ運ばれ、その行列は「お茶壺道中」と呼ばれていたのじゃ。寛文5年(1665)に…
m弱となりますかね。江戸までは旅籠屋の数も恵那の大井宿に次ぐ35軒もあり、美濃十六宿・最大の宿場だったのじゃ。天皇の勅使や公家・大名などが宿泊する本陣や脇本陣も…
山道は東海道とともに江戸日本橋と京都三条大橋を結ぶ重要な街道です。徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)に東海道、慶長7年(1602)には中山道に伝…
が交わるところじゃ。江戸の相撲取であった二代目鏡岩(源之助)が乱暴な所業を反省し己の木像を作り「ぶたれ坊」と名づけ、通行人に棒で打たせて罪ほろぼしをし、ここで茶…
前町として栄え始め、江戸・明治・大正・昭和と時代を経るなかで、独自の歴史や文化を積み重ねてきました。その名残りは、いまでもなお、歴史的な景観や祭りなどの行事に色…
れておる。この木像は江戸の相撲取であった二代目鏡岩(源之助)が乱暴な所業を反省し罪ほろぼしをするために己の木像を作り「ぶたれ坊」と名づけ通行人に棒で打たせたのじ…
ゃ。中山道を経由して江戸へ向かう途上、10月26日に加納の本陣(松波藤右衛門宅)に宿泊され、そのときに詠まれたという歌が伝えられ、歌碑が建てられているのじゃ。「…
諧人となり、その後、江戸で俳諧の教授をいたしておりました。春日局はわたくしの一族でございます。「唐までもさんごの月の光かな」この句は寛永18年(1641)将軍家…
されています。また、江戸時代には、毎年、新茶の季節になると、献上茶を入れた茶壺を駕籠(かご)にのせた華麗な行列が京都の宇治から江戸間を往復していました。人々はこ…
日間の予定で運ばれ、江戸で食膳に上がるときに食べ頃になるように塩漬け時間など配慮していました。 より良いホームページにするために、ページのご感想をお聞かせ…
この地を訪れました。江戸時代、尾張藩は長良川の鵜飼でとれた鮎を加工した鮎鮨(あゆずし)を将軍家へ献上していました。慶長12年(1607)、加納新町の熊田家が加納…
げます。 わたしは江戸時代の付問屋を営んでおりました町商人でございます。寛永13年(1636)、岐阜町を統治しておりました尾張藩は、ここ長良川の川湊に役所を設…
主・徳川宗春である。江戸時代の岐阜のまちは、尾張藩岐阜町として治められておった。歴代藩主は、必ず一度は岐阜を訪れ、ここにあった賀嶋家を定宿とし、これを岐阜御成と…
は町民代表の総年寄。江戸時代、町奉行の差配を受けて町政一般をつかさどっておりました。ここから北はかって織田信長様が完成させた堀と土塁に囲まれた総構(そうがまえ)…
西番所がありました。江戸時代、ここが加納宿の西側の入り口となっていました。ここの北側に文久元年(1861年)の石仏がありましたが、近年新仏に作りかえられました。…
ことはありませんか。江戸幕府は正徳6年(1716)通達により、それまで混在して使われていたこれらの文字を「山」の字に統一しました。その理由として、五畿七道(ごき…
(さんぎづみ)という江戸時代初期の積み方がされておる。そして、この石垣には、かって三階櫓(さんかいやぐら)があり、廃城になっていた岐阜城の天守を移したと伝えられ…
寺に改めたそうじゃ。江戸時代には伊奈波神社から西に伸びる目抜き通りにあったため、このあたりは芝居や能が行われるなど、大変にぎやかな場所であったと聞いておる。寛延…