た。その後、岐阜町は尾張藩領となり、元禄8年(1695)には町民の願いもあり、ここに岐阜町奉行所を開いたのだ。敷地内には奉行所・道場・同心屋敷・手代屋敷などがあ…
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た。その後、岐阜町は尾張藩領となり、元禄8年(1695)には町民の願いもあり、ここに岐阜町奉行所を開いたのだ。敷地内には奉行所・道場・同心屋敷・手代屋敷などがあ…
ます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1717)8月に岐阜町出張の折、…
ます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1717)8月に岐阜町出張の折、…
美濃の地に生まれ、松尾芭蕉の門弟・蕉門十哲の一人である各務支考(かがみしこう)でございます。この句は、ここ岐阜の地では、風光明媚な山々の端から昇ってくる月を見る…
し上げよう。 私は尾張藩7代藩主・徳川宗春である。江戸時代の岐阜のまちは、尾張藩岐阜町として治められておった。歴代藩主は、必ず一度は岐阜を訪れ、ここにあった賀…
ます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1717)8月に岐阜町出張の折、…
91)10月28日濃尾大震災が発生し、岐阜の街は壊滅。岐阜県内でも約5000人が亡くなりました。その方々の御霊を慰めるため全国から寄付を募り、明治26年(189…
て間もない頃、隣国・尾張から織田信秀(織田信長の父)の軍勢が、井ノ口の町中まで攻め込んできたのじゃ。わしは、それを押し戻し、この円徳寺のあたりで織田の軍勢を打ち…
を統治しておりました尾張藩は、ここ長良川の川湊に役所を設け、川を利用して運搬する材木類や、酒、紙、お茶などの舟荷物などを点検して、舟役銀(ふなやくぎん)という通…
ふ・いざないびと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「梅か香にのつと日の出る山路哉」この句は、元禄7年(1694)の春、句集「炭俵」の冒頭を飾った句でございます…
ふ・いざないびと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」この句は、貞享5年(1688)の夏、わたくしはここ長良川で鵜飼を楽しみま…
ふ・いざないびと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「このあたりめにみゆるものは皆涼し」この句は、貞享5年(1688)の夏、わたくしが、油商の賀島善右衛門様の長…
ふ・いざないびと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「城跡や古井の清水先とはむ」この句は、貞享5年(1688)の夏、わたくしが金華山の麓にございました庄屋の松橋…
ふ・いざないびと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「夏きてもたゞひとつはの一は哉」ヒトツバとはシダ植物の仲間で、一年を通じて一本の茎に一枚だけ葉をつけた姿で金…
ふ・いざないびと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「撞く鐘もひゞくやうなり蝉の聲」この句は、貞享5年(1688)の夏、わたくしがここ岐阜の地を訪れた折に詠んだ…
ふ・いざないびと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「松杉をほめてや風のかほる音」この句は、元禄7年(1694)の夏、京都嵯峨の落柿舎にて詠んだものであります。…
ふ・いざないびと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「又やたくひなからの川の鮎なます」この句は、貞享5年(1688)の夏、わたくしが長良川の鵜飼に招かれた日の夕…
ふ・いざないびと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「やとりせむあかさの杖になる日まで」この句は、貞享5年(1688)の夏、わたくしは、ここ妙照寺の住職であった…
ふ・いざないびと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「山かけや身をやしなはむ瓜はたけ」この句は、貞享5年(1688)の夏、わたくしの来岐を勧めてくださった呉服商…
ふ・いざないびと、松尾芭蕉がご案内申し上げます。 「山陰や身を養はむ瓜ばたけ」この句は、貞享5年(1688)の夏、わたくしの来岐を勧めてくださった呉服商の安川…