濃姫がご案内申し上げまする。 この墓は、天正10年(1582)本能寺で信長様と共になくなったわたくしの遺髪を埋葬した遺髪塚であると伝えられております。昭和20…
| ここから本文です。 |
濃姫がご案内申し上げまする。 この墓は、天正10年(1582)本能寺で信長様と共になくなったわたくしの遺髪を埋葬した遺髪塚であると伝えられております。昭和20…
か博士がご案内いたします。 この祠は、長良雄総の桜堤のなかほどにあり、村を救うために犠牲となった娘・おくわの墓と言われています。その昔、度重なる洪水に苦しんで…
千代がご案内申し上げまする。 大河ドラマ「功名が辻」でも紹介していただいておりますが、永禄10年(1567)、信長様が稲葉山城をお攻めになり、この地を岐阜と改…
か博士がご案内いたします。 丸尾錦作氏は、安政3年(1856)加納に生まれ、学習院教授となり、大正天皇の学問の師として大任を果たされました。また、東宮侍従とな…
の精がご案内申し上げます。 この場所には、かって楠堂(なんどう)という建物がございました。楠堂は、現大垣市出身の実業家・矢橋亮吉が明治37年(1904)に建て…
ッコ像がご案内いたします。 私、「マルゾッコ」と呼ばれるライオン像はフィレンツェ共和国のシンボルです。フィレンツェ共和国の紋章が描かれた楯を右の前足で押さえて…
年寄がご案内申し上げます。 ようこそ、岐阜町へ。私は町民代表の総年寄。江戸時代、町奉行の差配を受けて町政一般をつかさどっておりました。ここから北はかって織田信…
衛門がご案内申し上げます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1717)8…
、花子がご案内いたします。 わたくしは、本名を太田ひさといい、近代彫刻の巨匠・オオギュスト・ロダンの日本人ただ一人のモデルとなりました。わたしは流転の末、芸者…
ん)がご案内申し上げます。 私は明治時代の国会議員です。浄土真宗本願寺派の僧でしたが、第1回衆議院議員選挙にあたり僧籍を離れて立候補し、当選しました。明治24…
之助がご案内申し上げます。 わたしは江戸時代の付問屋を営んでおりました町商人でございます。寛永13年(1636)、岐阜町を統治しておりました尾張藩は、ここ長良…
衛門がご案内申し上げます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1717)8…
イスがご案内申し上げます。 わたくしは、永禄12年(1569)、キリスト教の布教のため岐阜を訪問したポルトガルの宣教師です。わたくしたちは、信長様に謁見するた…
芭蕉がご案内申し上げます。 「梅か香にのつと日の出る山路哉」この句は、元禄7年(1694)の春、句集「炭俵」の冒頭を飾った句でございます。立春を過ぎても寒さが…
芭蕉がご案内申し上げます。 「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」この句は、貞享5年(1688)の夏、わたくしはここ長良川で鵜飼を楽しみました。篝火に照らされて…
衛門がご案内申し上げます。 わたくしは尾張藩の御畳奉行。「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)という日記をつけて当時の見聞を残しています。享保2年(1717)8…
芭蕉がご案内申し上げます。 「城跡や古井の清水先とはむ」この句は、貞享5年(1688)の夏、わたくしが金華山の麓にございました庄屋の松橋喜三郎様の邸宅に、納涼…
芭蕉がご案内申し上げます。 「夏きてもたゞひとつはの一は哉」ヒトツバとはシダ植物の仲間で、一年を通じて一本の茎に一枚だけ葉をつけた姿で金華山に自生しております…
か博士がご案内いたします。 ここ岐阜総合庁舎は、大正13年(1924)10月に岐阜県庁舎として建設されました。そのデザインは、立体美・重厚な表現に配慮され、装…
芭蕉がご案内申し上げます。 「撞く鐘もひゞくやうなり蝉の聲」この句は、貞享5年(1688)の夏、わたくしがここ岐阜の地を訪れた折に詠んだものでございます。稲葉…