内申し上げよう。 わしは、南北朝時代の美濃国・第3代守護である。この寺は14世紀中頃、わしの本拠地である革手城の北に建立した寺で、禅宗五山派(法燈派)の寺院で…
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内申し上げよう。 わしは、南北朝時代の美濃国・第3代守護である。この寺は14世紀中頃、わしの本拠地である革手城の北に建立した寺で、禅宗五山派(法燈派)の寺院で…
ここ伝燈護国寺は、わしが、永禄3年(1560)京都の妙心寺から僧・別伝を招き、建立した寺である。わしは、この頃、勢力を有していた禅宗寺院を抑えるため、当時の禅…
内申し上げよう。 わしは、加納藩初代藩主で、妻は徳川家康様の娘・亀姫である。この城は中山道に面し、関ヶ原合戦直後に西国大名に対する要衝として、慶長7年(160…
内申し上げよう。 わしは、加納藩初代藩主で、妻は徳川家康様の娘・亀姫である。このあたりは、かっての加納藩の役所があった三の丸で、南北に堀があり、現在の加納公民…
内申し上げよう。 わしは、加納藩初代藩主で、妻は徳川家康様の娘・亀姫である。かって加納城の御殿があった、ここ二の丸跡は今も石垣が残っておる。本丸の石垣と同じよ…
に対する要衝として、わしが家臣・本多忠勝に築城を命じた城である。廃城となった岐阜城から天守などを移築し、慶長7年(1602)に築城を始め、3年後に完成をみたので…
の公園は、戦国時代、わしや斎藤道三の居館があった場所である。金華山の大自然に包まれた園内は、内苑と外苑に分かれており、内苑には、わしの居館跡をはじめ、冠木門、信…
広場には、黄金に輝くわしがおるんじゃ。平成21年9月に岐阜市の市制120周年を記念して、市民の寄付によって金箔(きんぱく)3層)張りの銅像として建てられたんじゃ…
者たちを弔うのにふさわしい地であると考えたのだ。今は霊験あらたかな子安地蔵をまつる寺として、多くの人々の信仰を集めておるそうじゃ。 より良いホームページに…
内申し上げよう。 わしは稲葉山城(後の岐阜城)を居城とするため、かつて金華山北側中腹の丸山にあった伊奈波神社を、この地へ移したのだ。天文8年(1539)頃の話…
年(1567)※注、わしが後に岐阜城と改めた稲葉山城を攻略したとき、本陣だった場所に移したのがこの寺である。わしはこの寺に陣鐘を寄進し、濃尾の寺院を統括させたの…
市小熊にいた地蔵を、わしが、永禄11年(1568)に現在地に移したのじゃ。しかし、地蔵が小熊に帰りたいというお告げがあったので、天正2年(1574)、このあたり…
り、美濃国主になったわしは、ここ常在寺を寺領を与えて保護していったのじゃ。しかし、弘治2年(1556)長良川での戦いで、子・義龍に敗れてこの世を去った後は、斎藤…
げよう。 ここは、わしがかって住んでおった尾張清洲にあった寺で、岐阜へ本拠を移した際に下竹町の総構の外に移転させた寺である。天正10年(1582)、善光寺如来…
年(1570)から、わしの天下統一の野望に最も抵抗した石山本願寺を攻撃したため、本願寺法主・顕如は教書を各地の門末に下し、末寺の蜂起を促がしたので、美濃において…
10年(1567)、わしが岐阜に本拠地を移すと、この寺に禁制を出して保護し、織田家の菩提所としたのだ。本能寺の変でわしと子・信忠が明智光秀に討たれたとき、わしの…
内申し上げよう。 わしは、南北朝時代の美濃国・第3代守護である。もとは、第2代守護・土岐頼遠が東濃から長森に本拠を移した後、その跡を継いだわしが、観応年間(1…
松亀山誓安寺といい、わしの家老で美濃加賀野井(現羽島市)城主・駿河守重信の子・弥八郎が建立したと伝えられる。弥八郎は、合戦の時の不思議な体験がきっかけで僧侶とな…
を、武田氏を滅ぼしたわしが、善光寺如来をここへ移したことに始まるんじゃ。また、この院の年中行事には、大変ユニークなものがあるんじゃ。7月の「胡瓜封じ」というもの…
古社である。そして、わしは、ここ稲葉山を居城(後の岐阜城)とするため、烏帽子岩(えぼしいわ)と呼ぶ神々しい巨石の残るこの地にあった伊奈波神社の社殿を、現在の地へ…